序文


古本さんのは付き合いは深くはない。しかし知り合ったのは最近ではなく10年以上も前になる。そのころ彼はまだディスカスショップを手伝ったり開いたりする前で別の仕事をしていた。当時のWBSABBYの取引先の問屋さんの温室であった。その時の印象はハキハキした若きディスカスファンの一人というイメージで今と同じように首からカメラを下げていた。
その後彼がディスカスショップの店長となり、やがてショップを開きオーナーになったことは人伝てに聞いてはいた。それからさらに何年かたち色々な事情や紆余曲折があってWBSABBYのワイルドディスカスを彼の店が扱ってくれるようになったことも知る。ただそれは今のWBSABBY代表の山本千尋くんの仕事であって私は経営から放れてだいぶたっていたし、東京で別の仕事を計画していたので直接会う理由がなかった。それが一緒にドイツに行くようになったのは2年少し前に彼からドイツディスカス復興プロジェクトに興味がある、とWBSABBYに連絡があってからのことだ。

絶好調だったこのプロジェクトに嫌な事件があり、私はこのプロジェクトを放り出す寸前までいった。それを支えてくれたのは韓国のバンさんだった。2年前に古本さんが登場したことで、それを心から喜んだのは当のシュルツ、ティツェ両氏だった。彼らはこのプロジェクトの継続を望んでいて、おそらく日本への出荷が中止になったことでがっかりしていたに違いない。
それは日本人の私が始め、日本が想定したプロジェクトで、実際に日本でかなりの成功をおさめていたからだ。中国への紹介も考えたがそれは彼ら二人の望むところではなかった。だから古本さんの登場をドイツの二人はとても喜んでいる。ドイツには昨年と今年と2回一緒に行った。韓国のバンさんも一緒だった。わたし自身がいつまでこのプロジェクトにかかわれるかはわからない。

第一始まったものには必ず終りがある。その終わりがいつになるか、ただそれまでの間古本さんーチャオチャオを通じて”ドイツディスカス復興計画”の結果の紹介を継続できればと思っている。最後に以下の随想というか回顧の文章は、ドイツで古本さんと話すなかで実現したものだ。こころよく掲載を了承してくれた古本さんに感謝します。

    

 

ドイツディスカス復興プロジェクトを振り返って思い出すことなど 前編

 

1ディスカスとかかわったのは21年前だったー 

 

WBSABBYとしてワイルドディスカスを扱い始めてから21年経ち、ドイツディスカスルネッサン ス(復興)プロジェクトは2009年に着手したので今年で9年たった。それにしても”ドイツディスカス復興”とはずいぶん大袈裟な名前をつけたと思う。プロジェクトを始めた時はきっと気負っていたのに違いない。このプロジェクトを始めた動機は海外のディスカスのクライアントとそのお客さんとの幾つかの 会話にあった。 

2009年という年は、マナウスでK2という熱帯魚輸出会社を経営していた山本くんにゴイアニアにきてもらい、WBSABBYの経営を任せるようになって2年目にあたる。私は経営に実務はほとんど彼にまかせていて、ありていに言えばブラブラしていた。ダイビングにいったりテニスをしたり東京へ2ヶ月くらい戻ったりで、それでもWBSABBYには 頻繁に顔を出していた。顔を出すといえば聞こえはいいが経営の責任は”移譲”ということで山本くんに押し付け、でもアレコレ口を出すという今から考えるとムシのいいことをしていたと思う。

 

 

 (シュルツさんのシュツットガルトの温室で)

 

そのブラブラ生活の中でも割りと真剣ににアドバイスしサポートしたのは東アジアへの輸出を増やすことだった。中国経済が破竹の勢いで伸びている時期で熱帯魚への関心が高まっていた。ディスカスに限って言えば台湾も決して小さいマーケットではなかった。韓国とも取引が始まりWBSABBYのワイルドディスカスへの期待は決して小さくなかったと思う。


2熱帯魚をディスカスをブラジルから輸出する仕事


ブラジルではブラブラ生活をしていたが日本に一時帰国する途上にはWBSABBYへのサポートとして東アジアの中心国の中国、韓国、台湾に寄り、クライアントやその候補と直接あっていた。我々輸出業者がその代理店とも言えるインポーターと会う時の仕事は「どんなディスカスが売れている?」とか「来季はこんなディスカスがほしい」など相手の話を聞くこと、その上でこちらは「こういう事情でこのディスカスはなかなか入手が難しい」とか、「この地域のディスカスを開発しようとおもっている」と説明する。そして価格も含めて大まかに合意するーというのが基本だこれはどんな商品でも同じだと思う。

 

ただ熱帯魚とくにディスカスの仕事ではそれと同じくらい大切なことがあって、それはインポーターやショップのお客さんと直接会うことだ。その大切さに気がついたのは東京からブラジルに移住し未経験の熱帯魚の仕事をはじめてから3年目、1996年のことだ。 WBSABBYがワイルドディスカスを扱い始めた年である。それはアレンカーディスカスだった。アレンカーディスカスはその存在がまだ謎につつまれていて何が”アレンカー”の名が冠されたディスカスなのかもハッキリしていなかった。産地名などはまるでない時代だ。第一ほとんどアレンカーディスカスは輸出されていなかったと思う。そこに初めて産地を特定しWBSABBYとして出荷したのが1996年の12月だった。

 

3 WBSABBYのワイルドディスカスはドイツ向けが中心だった


そのころはドイツへの輸出が好調で、日本には及ばないものの対ドイツ輸出は動かざる2位でありWBSABBYにとって決して軽視できない国だった。ディスカスに限って言えば96年から3-4年はドイツの方が日本よりたくさん買っていたと思う。なので年3回ブラジルとドイツを往復したこともある。

その頃はWBSABBYの熱帯魚のお客さんはケルンにあったミンボンアクアリウムという会社だ オーナはローランド 彼からディスカスのスペシャリストでWBSBABYのワイルドに興味がある青年として紹介されたのがオトゥリックだ 彼は自らブリーディングを若い頃にでがけていて それを止めた頃で主にブリーダーを中心にワイルドディスカスを販売していたと思う
彼はまだ若く30手前でディスカスの経験と知識がとても豊富だった ディスカスについての説明は常に論理的で説明的でありドイツを感じさせた 日本の鯉もあつかっていたので日本には親しみを持っていたように思う

ミンボンアクアリウムは中部ドイツのケルン市にありオトウリックの温室はケルンから北へクルマで1時間ほど行ったオーバハウゼン市にあった 有名なルール工業地帯にあり鉄鋼と石炭で栄えた町だ彼と初めてあって2回目の出張のときからだろうか オーバハウゼンを訪れる度にアウトバーンでアチコチに行き多くのディスカスの関係者を紹介された アウトバーンで日帰りができる範囲に限られてはいたがー たいてい「この人はディスカスのブリーダーだ」と紹介され、地下室にある温室に案内される 一度は潜水艦のハッチに続く階段のようなものが部屋の真ん中に取り付けてありそれを伝って温室のある地下に降りることもあった オトゥリックと相手がドイツ語で話をしているのを横で聞きながら、温室をブラブラみてまわっていることが多かったと思う わざわざルクセンブルグから国境を超えて会いに来てくれる人もいた 当時は改良品種についての知識はゼロに近かったから熱心に訪れた温室のディスカスを見なかったし、紹介された人の名前は覚えていない

 (シュルツさんがレストアした”カブトムシに乗る”)


デュイスバーグで2年毎に行われていたディスカスコンテストにも2回行った WBSABBYのワイルドを欧州の何人かのブリーダーやファンが出品していたからだ
コンテストには多くのブリーダーが来ていてオトウリックが次々に紹介してくれる その多くがD7のメンバーかその周りのディスカスファンだったと記憶する D7というのはDiscus Sevenの縮小表現で、ドイツを中心としたディスカスのブリーディングをしている人たちのゆるやかなグループのようだった
その主要メンバーが7人なのでD7とよんでいると説明された ときどきメンバーが集まって意見交換をしたりアマゾンのビデオをみたりしていたらしい ホテルのバーで彼らに囲まれて矢継ぎ早にアマゾンのそれもアレンカーのことを色々と聞かれたのを覚えている ニュルンベルクで開かれる大規模な展示会のインターズーにも行った ローランドとオトゥリックに連れて行かれたのだった 会場が閉まってからローランドとオトゥリックが主催したパーティーに呼ばれた そこでも多くのドイツのディスカス関係者を紹介された

その時代はきっとドイツのオリジナルの改良品種は 香港 ペナンなどの東南アジア勢に猛烈に押されながらもまだギリギリ命脈を保っていた最後の時期だったに違いない それは後年だいぶたってから考えたことにすぎない  考えようにもそのころは改良品種についての知識も歴史観もまるでなかったから話にならない 今思うとドイツにワイルドを出荷し始めてからの数年間にディスカスのブリーダーやディスカスファンの温室で間近にみたはず改良品種の中にはいまは消え去ったドイツオリジナルの素晴らしいディスカスが数多く含まれいたのではないかーきっとそうだったのだろうとおもっている 


4ドイツとの時代の終わり


WBSABBYのディスカスの出荷のピークは明確に覚えていてそれは2004年のシーズンだ
しかしドイツ向けディスカスのWBSABBYの出荷のピークは記憶によれば2001年か2002年だったと思う ワイルドディスカスの出荷は日本はまだ順調にのびていてドイツ向けが徐々におちていった
やがて東アジア諸国が有望なマーケットとして登場した WBSABBYに関して言えばまず台湾に出荷が始まり、やがて韓国と取引がはじまり最後に中国が登場した ディスカスだけでなく他の熱帯魚も東アジアの登場でドイツを中心にした欧州になにがなんでも出荷する必要もなくなりオトゥリックとのディスカスの取引は2005年前に途絶えた その後欧州への熱帯魚の出荷は急激に減っていって今に至っている

 


(WBSABBYの温室でドイツディスカス復興プロジェクトに向けて出荷をまつ
クイペアディスカス)


ドイツは90年代の半ばまでは日本への南米やアフリカの熱帯魚の紹介者であり中継地点だっと聞く ”聞く”と書いたのは私はブラジルに移り住む前の東京時代も熱帯魚を飼ったことがなかったドイツの熱帯魚界におけるその全盛期を同時代的に知らないのだ もし熱心な熱帯魚ファンなら「ドイツ便」という言葉は当たり前のように知っていてワクワクしていたのに違いない


ブラジルに移り住みWBSABBYを設立した93年前後は原産国から直接消費国に出荷するエキスポーターが現れやがて当たり前になっていく時期にあたる、それでもまだ輸出をはじめたころは日本の熱帯魚の問屋さんは原産国から直接入れはじめつつもドイツ便も同時に取っていた 日本のインポーター(問屋)と深く付き合ううちに過去のワイルドの熱帯魚の取引は欧州便が中心であったのを知った ドイツ そしてオランダ 英国の三カ国が大勢力であったらしい 


話はそれるが、アマゾンの熱帯魚を欧州を経由せず日本に紹介し、情報も生態も直接日本に出荷するルートを開拓した嚆矢は松坂實さんだとおもっている 第二次熱帯魚ブームの立役者ともいえる松坂さんの登場はおそらく欧州が独占していた南米の熱帯魚情報に風穴をあけた 彼の写真 彼の文章 破天荒なキャラクター そしてアマゾンで自ら採集し直接送った生体は日本の熱帯魚ファンを狂喜させたらしい その行動と影響力は日本の熱帯魚ホビーの歴史がもし年代紀として編纂されるとしたら、その一章を割くのにふさわしい 水槽レイアウトで世界的に著名な天野尚さんともに、毀誉褒貶はあるにしろ、松坂實さんは日本の熱帯魚の歴史の中の”巨星”の一人と考えていい


さてドイツへのディスカスの出荷は2005年でおわった 2007年にはWBSABBYの経営を山本くんに譲り私は顧問となった 93年にブラジルに着地していらいあれほど熱心に取り組んだアマゾン熱帯魚のビジネスから遠ざかりつつあった


5 東アジアの登場


ドイツの熱帯魚の元クライアントやファンとの付き合いや連絡は自然に減っていった そしてブラジルと東京との往復の途上に世界のアチコチに自由にいける身となっていた 仕事と関係ないローマやミラノ、パリなどに寄って最後にイスタンブールやバンコクで休んでから東京に戻っていたし逆にブラジルへ帰国の際には熱帯魚で知り合ったもはや旧友(old frined)とも呼べるオリバーと四方山話をするために必ずモントリオールに寄って何日か泊まってからブラジルにもどっていた そのまったりしていた時期に新たなマーケットとして登場したのが中国であり、その存在感を示しはじめたのが韓国と台湾だ

WBSABBYの台湾への初出荷は2002年か3年だと記憶している 韓国へは2007年 中国は2009年に取引がはじまった  その間シンガポール、タイ そして東欧のスロベニアまでスポット的に熱帯魚、主にディスカスの取引先として登場した、つまり熱帯魚全体の市場構造が先進国から新興国に急激に変化していたのだった 

そしてそれらの国をWBSABBYの経営者としてではなく、元経営者で顧問としてそれら新興国を訪れるようになった 当然インポーターであるショップの経営者と話すだけでなくディスカスのファンも多数紹介される ドイツ時代とおなじようにアマゾンの話をし、また彼らのディスカスについての色々な話を自然と聞くようになる  それの時の会話が「ドイツディスカス復興プロジェクト」を考え始めるきっかけとなった


6熱帯魚よりも人間をみていた

 

 

ドイツはますます記憶の中の世界となりとおのいっていった

 

ドイツ時代にあった様々な人の様々な温室でみたはずの様々な改良品種については記憶がない それがドイツコバルトだったのかロートターキスなのかレッドエディがあったのかはたまたそれ以外のモノであったのかいまとなっては確かめようもない 記憶にあるのは彼らと共有した空間や交わした会話の断片 、食事会の雰囲気 、寒々とした風景などー そこにディスカスの個体はでてこない あるのはそんなイメージが重なったぼんやりとしたドイツとドイツ人のイメージだけだ、奇妙なことにそのイメージの背後にディスカスがいたのは間違いないのだが

 


(WBSABBYの現経営者たちと会社でー 昨年3月に久しぶりにブラジルに行った)


思い越せば熱帯魚のファンであったこともなく、飼ったことも今に至るまで一度もない私が海外でインポーターやショップやファンにそれなりに丁重に扱われていたとしたら、それはバックにWBSABBYそしてK2の存在があったからだ それは自明である 熱帯魚の流通の流れのなかでは最上流に位置していたWBSABBYの背後にあるのはクライアントでもインポーターでもショップでもない それは大アマゾンだった  採集の規制も緩やかだった当時は我々のストックリストは温室のなかの魚だけだけではない それはストックの一部にすぎない 本当のストックは大アマゾンにあったーといっても必ずしも間違いではなかった 彼らが私の話に期待したものはディスカスの様々種類の生息環境 地域毎の個体の違い PHや硬度などのデーターそしてその生態だったかもしれない その点私は彼らを満足させることはできなかった しかしそれ以上に彼らが 本質的に私にWBSABBYに期待したことは 「よりいい より素晴らしいディスカスを供給すること」の一点にあった  その期待をふくらまし、それが口だけにおわらず、実際に供給して彼らに満足してもらうのが最大の仕事と割り切っていた 


私はと言えばハナから熱帯魚の個体についての知識や水質や飼い方など輸出業者として当然の知識を身につけるのは放棄していた 一方力を注いだのはインポーターがショップがファンが何を求め 何に興奮し 何に興味をしめざす 何に哀しみ 何に怒り 何に嫉妬し 何を喜ぶのか つまり「何をもって買う決断をするのか」を知ることだった それをよく聞いた上でWBSABBYやK2のアマゾンでの採集や仕入れの方向をきめるーそれが仕事だとおもっていた 広大以上に広いアマゾン全域のなかで、どこに行きどこに行かないのか どの種をあきらめどの種を選択するのか 新規エリアの開拓をするのかしないのか それはどのエリアなのか それを決めるのがWBSABBYーK2のなかで私の最も重要な仕事だった


確かに熱帯魚を本業とし仲間や従業員を抱えたリーダーに熱帯魚の知識があまりにないのは問題だということはわかっていた しかし同時に熱帯魚の仕事も政治や経済や文学や音楽と同様
に人間に関わる仕事である以上、それに関わる人間が何を求めているか掴めればいいと割り切った それを感覚的につかむために色々な確度からアプローチを考え一定以上の努力をしたと思う


クライアントが何を求めているのかしること、それは決してクライアントやショップのいうディスカスやプレコを追いかけることではない
WBSABBYやK2は決して御用聞きであってはいけないとおもっていたし第一アマゾンではまだまだ何がでてくるかわからない時代だったからだ そこにWBSBABYーK2のオリジナルな行動や総合的な考えがなければ市場に振り回されるだけーと思っていた なので何度も仲間内で打ち合わせを繰り返し意見を聞く 最後には私が決めた


ただドイツディスカスルネッサンス=ドイツディスカス復興計画の実行には今までのやり方ではなにかが足りないことを着手する前に感じていた  このプロジェクトでも改良品種の個体そのもののについての知識は私にはかならずしも必要ではなかった  どうしても必要だったのは改良品種の知識をベースとしたその変遷、栄枯盛衰についての「歴史観」だった こんどはWBSABBYのワイルドの仕事とは違いその「歴史感」をつかむため一定の勉強から逃れるわけにはいかなかった


小野田啓右 元WBSABBYーK2グループ代表