ドイツディスカス復興プロジェクトで思い出すことなど

2017年9月21日(中編その2)

 

1 WBSABBYの経営を山本くんに譲りブラブラする

 

2009年にドイツディスカス復興プロジェクトに着手した2年前の2007年にマナウスで、WBSBABYの兄弟会社でもある同じ熱帯魚輸出会社のK2を経営 していた山本千尋君をWBSABBYのあるゴイアニア市に家族ごと呼び寄せてWBSABBYの日常の経営をしてもらうことにした。経営を譲ったーというよりも経営を投げ出したーといったほうが真実に近い。K2の経営は決して悪くなかったので山本くんがK2から抜ける必要はなかった。しかしWBSABBYの設立15目にして外部内部いろいろなことがあり、私は、要は経営に飽きていた。ウンザリしていたのだ。これ以上経営に情熱がもてないのは目に見えていた。なのでWBSABBYの経営を山本くん強引に押し付けたというのが本当のところだ。しかしこの私のわがままが後でK2に大変な厄災をもたらすことになった。それはここで本題ではないので、その「K2に起こった厄災」については別の機会に譲りたい。

 

 

(山本くんと私 いつどこだろうか ラーゴソロモン近くか 10年くらい前か)

 

WBSABBYの経営を山本くんに譲ってからもそのままゴイアニア市のマンションに住みつづけた。そして郊外にあるWBSBABYの敷地内にあった古い家を改装した。そこを別荘と称して市内のマションから毎日”別荘”に通いベランダで本など読む、WBSABBYの事務所に時々顔をだす、食事や掃除は女中がする、その頃は日本のテレビ局からネイチャードキュメンタリーの大きな仕事がはいっていたので、魚の仕事はなくなってもやることはあった。しかしルーティンの仕事はないので時間があまる。テニスをしたり、リオにダイビングにいったり、DVDをみたり、近所の町に買い物にいったり、クルマを改良したり、バイクにのったりいろいろなことをした。日本ならバリバリで仕事をしている年齢だったが、まるで定年後のようなまったりした生活だったと思う。

 

2 2ヶ月だけWBSABBYの仕事を手伝いディスカス漬けになる

 

さて2009年のディスカスシーズンの前に山本くんと鴨志田くんと私の三人で、ディスカスの採集計画を立てた。事実上引退したといってもWBSBABYの経営に慣れない山本君をサポートする必要はあった。特にシーズン毎の採集大計画へのアドヴァイスは大切だ。この採集の骨格を誤るとシーズン全体がうまくいかなくなる。なにしろアマゾンで熱帯魚が入るのは1年のうち3-4ヶ月にすぎない。大計画がダメだと歯車が狂い修正しにくい。なので大計画の立案には注力しなければならない。

 

私が2009年に立てた計画のコアは、明確に覚えているが ”Wアマゾン” と銘打った計画だった。Wアマゾンとは、WBSABBYのメインメンバーをシーズン中二人 W=ダブルで アマゾンに送り込むーことを骨子にした計画だった。 普通はどこのエキスポーターもせいぜいシーズン中にアマゾンに送り込むのは一人でそれも時々行く程度にすぎない。

WBSABBYは輸出業者のなかでは例外的にシーズンを通じて主要メンバーを一人必ずアマゾンに送り込んでいた。それを二人に増やそうというのが採集計画の骨子だ。採集力は倍に強化されるがゴイアニアのWBSABBYの事務所はがら空きとなる。すると営業、人事、給料などオーナーだけができる仕事が滞る。ブラジルではオーナーがその家族以外の従業員に営業統括や給料や人事を任せる中小企業はゼロに近いといっていい。決して従業員を信用しないのだ。

 

(WBSABBYの敷地で時々開いていたシュラスコパーティー 従業員や昔の秘書も参加 楽しい。肉は大地に近いほどうまい!)

 

で、そのオーナしかできない仕事を私が2ヶ月間に限り引き受けることにした。それから2ヶ月間 山本くんと鴨志田くんが送ってくるディスカスを温室で捌き管理し輸出のパッキングに立会い、そして営業は全面的に引き受けた。 もっとも苦労したのが魚の日常管理と輸出パッキングなどの立会いで、私はWBSABBYの設立以来、熱帯魚の管理をした経験は一度もないし、輸出の準備やパッキングも自ら先頭にたったこともなかったから最初は大変だった。水槽の水換えも15年間で2-3回しかしたことがない。なのでベテランの従業員に水換えのやり方を教えてもらいながら温室管理の先頭にもたった。早朝から夜遅くまで連日不眠不休という感じで熱帯魚と、なかでもディスカスの管理と選定に追われた。自分で設立した会社とは言え、WBSABBYで身体を使う仕事は初めての経験なので面白くもあった。その2ヶ月はディスカスにどっぷり浸かる日々だった。

 

次第に山本くんや鴨志田くんが送ってくるディスカスを温室で開梱するのが楽しみにもなってきた。なにしろディスカスは一枚一枚違うのだ。超美人は稀で、美人はある程度存在し、普通のディスカスは多数。”見方によってはわるくない”のが幾つか”なんでこれセレクトしたの”というのも必ずある。 つまり見た目の美醜や魅力で言えば人間と同じ分布なのだった。 これは凄いというディスカスは開梱して一瞬でわかるから”オーッ”という声がついでてしまう。

 

3 ドイツディスカスルネッサンスプロジェクト(ドイツディスカス復興計画)に着手する

 

さてそんなディスカス漬けの日々を過ごしている時に、それまでもボンヤリと頭の中にあった”ドイツの改良品種の復活”ができないか真剣に考えるようになった。アジア諸国を周っている内に往年のドイツ改良品種の存在感、歴史的な価値についてなんとなくわかってきていたし、例えば日本を例にあげれば色々な商品のトレンド”とにかく安いのはいいことだ”に変化が起きていた。そんなこともドイツディスカスルネッサンスを考える動機となった。”多少値段が高くてもイイものが欲しい”という層が戻りはじめていたからだ。改良品種として世界でもっとも伝統があり、後続の改良品種に影響を与え、伝統の中に 埋没しつつあった「ドイツ改良品種の復活」。テーマは悪くないと思った。WBSABBYのビジネスとしてはまったく成立しない、なんの利益もないだろう、だが-”ドイツの復活” はいまのアジア一色の改良品種のトレンドに一石を投じ一定のインパクトをあたえるのではないか-という仮説をもっていた。その仮説を試してみたかったのだ。 もし失敗したとしても人生のすべてをかけるわけでもなんでもない、失うものは少ない

 

”これはディスカスのルネッサンスだ”

” 面白いではないかー” そして

-おそらくWBSBABYには多少の迷惑をかけるだろう-

-WBSBBYにメリットはない むしろマイナスと捉えるらろう-しかし

-ドイツディスカスの復活のためのブリードに必要なワイルドはWBSABBYのものを使う 

それがWBSABBYワイルドのさらなる信用となりパブリシティーになるだろう-

-それを理由に現WBSABBYの現経営陣に彼らにとっては迷惑かもしれないプロジェクトの推進に協力してもらおう-

 

などと勝手に考えていた。

 

4 ドイツのブリーダーを探す

 

さて、まずドイツのブリーダーを探すこと。それができるだろうか。それが先決だった。数少ない現役のドイツのブリーダーはこのプロジェクトに合わないとおもっていた。彼らのディスカスにはアジアの改良品種の血が入っている可能性があったからだ。アジアの改良品種の血の可能性についてはWBSBABYのクライアントの複数のインポーターに相談し意見を聞いた ”ドイツ純血” にこだわると無名の、それもほそぼそとディスカスの繁殖を続けている人をドイツで探すしか無い-と想像できた。

 

ドイツの純血を保っていること、ドイツ人がドイツの領域内でおこなっていることなど、考えていたプロジェクトの条件を加えると、ブリーディングをしてくれる人を探すのは困難に思われた。このプロジェクトは例えばネットで調べていきなりコンタクトしたり、SNSで知り合いになった何かで意気投合した程度の相手に依頼してもうまくいかない。

 

(ラーゴグランジ カラナンザル 以前はすばらしいディスカスがでていた)

 

会ったことがない相手はまず信用できない、相手にしてもこんなネタをいきなり振られても面食らうだけだろう。となると信用できる知り合いに紹介してもらうのが現実的な方法だった。紹介を依頼したのはドイツ人でカナダに住んでいるオリバーだ。 その時から15年ほどまえに知り合あった。その後一緒にアマゾンに何度もでかけ、それは10回を超えている。東京でも遊んだし、彼の住んでいるモントリオールには東京からブラジルへの途上、何日か泊まるのが恒例になっていた。オリバーは元々WBSBABYの客だったし、その後親しくなるとドキュメンタリーの仕事に引き込んだりしていた。その間当然だが、いろいろと感情の行き違いがあったり利害が相反することもあった。それでも一定の関係が続いていたのだから ”信用できる友人” といってよかった。早速プロジェクトの概要を彼に話した。メールでも電話でもなくその時はスカイプのチャットで連絡したのを覚えている。

 

「誰かこのプロジェクトにふさわしいブリーダーをドイツで知らないか?」

と打ち込むとしばらくしてから打ち返しがあり

「それはシュルツがいいと思う」

「シュルツ?」

「お前は以前シュルツと会っている」-

 

 

(こういうディスカスは1000枚に1枚いるかいないか)

 

「えっ」

「アマゾンで、第二次アマゾンディスカス調査隊で一緒だった」

「2001年?」

「あの時のメルセデスの技術者だよ-彼が当時からブリーディングをしていたのを知っているだろう?」

「あ 彼? 覚えている。まだブリーディングを続けているのか?」

「オレの知っている限り、続けてはいると思う。 細々とだろうが」

「彼と連絡が取れるか?いきなり親しくもないオレが連絡をするのも唐突だし」

「わかった。前振りをしておく あとはオマエが連絡を取れ」 そうかシュルツか 彼か---。

 

5 シュルツとはアマゾンで2週間一緒に過ごしていた

 

WBSABBYと当時のドイツのクライアントだったオトゥリックで企画した”第二次ディスカス調査隊”と称するツアーで ”調査チーム”を編成してアマゾンに行ったのは2 001年のディスカスシーズンだった。 この時のメンバーは多彩で

日本 X ドイツ X ルクセンブルグ X オーストリア X チェコ X アメリカ X カナダ X ブラジル の混成部隊で約2週間 アレンカー域のディスカスの調査を兼ねた冒険ツアーをやったのだ。WBSABBYとオトゥリックの共同のディスカスのプロモーションも兼ねた企画だった。ラーゴグランジのマタリンパ、タライーラー、クイペア、ジャタプ、さらにはオビドスレッドなど、船を借り切っていろいろな所にいった。 因みに第一次ディスカス調査隊は1999年で、これもWBSABBY X オトゥリックの企画でこの時はCoariと北岸アレンカはクイペア、そしてラーゴグランジのどこかに行っている。

 

 

(2001年 第二次ディスカス調査隊 記念写真 中央右のチョッキがシュルツさん。 その右が山本くん、中央左が私、二列目中央長身がオリバー。クイペアで撮影か?)

 

オトゥリックの話によると、このツアーの成果はいくつかの欧州の熱帯魚雑誌に掲載された。EUの幾つかの国のディスカス協会でも報告されたという。彼によると次回の参加希望が ”1トン”くらい来ているとの話だった。結局2回しか催行しなかったんだが忘れられない冒険企画だ。 第一次も第二次も隊長は私が勤めた。副隊長は2回ともオトゥリック、そして山本くんの二人がなった。

 

話はそれるが、この企画が成功した一つの理由は、実際は冒険ツアーなのだが、「調査隊」という形式をとったことにもあった。調査隊だから隊長はすべての決定権にぎっている。そして隊員が支払うのはツアー費用ではなく”調査参加費”となる。だからオトゥリックと相談し”参加費”は安く押さえた。しかしディスカスの産地の奥にはいる本格調査だ。事前に「隊長の指示にはしたがうこと」とオトゥリックから欧州隊員によく説明してあり、なのでわがままなヤツのいないよくまとまったツアーだった。アマゾンを背景とした一種の「大人の探検調査隊ごっこの本格ツアー」といったらいいだろうか。もちろんWBSABBYのメンバーを事前に”調査予定地”に派遣し危険がないかチェックし現地のアマゾンの民にも話を通してあるのだが、さてこの第二次アマゾンディスカス調査隊のメンバーに”隊員”としてシュルツが参加していたのだった。

 

彼はメンバーのなかでは若く目立たない存在だった。ツアー中に彼との個人的な接触はすくなかった。他の調査隊のメンバーの個性は濃くそのなかで彼は目立つ存在ではなかった。 しかし熱心に水中写真を撮り、時間が有ると釣り竿を出してはルアーを投げ込んでいたのを覚えている。そのツアーの時のオトゥリックからの紹介は”私の客で(つまりWBSABBYの客)エンジニアで、趣味でブリーディングをしている”とのことだった。 - そうかあの時の彼か まだブリーディングを続けていたのか。

 

やがてオリバーから連絡がきた - 

話は振った。メルアドはコレコレ。サイトはコレ。あとは自分で連絡をしろ-

早速シュルツにメールを出した。

 

 

WBSABBY元代表

小野田啓右