ディスカス復興プロジェクトで思い出すこどなど その5

 

アレンカーディスカスの採集と紹介に本格的に乗り出す

 

クイペアのディスカスはWBSABBYが”クイペア”と産地名をストックリストに明記して輸出をはじめた 90年代後半から現在に至るまで ”赤の最高峰” としてワイルドの世界に君臨している感がある。 クイペアディスカスはWBSABBYを代表するディスカスであり続け、WBSBBYをあらゆる面で支え、そして発展させる原動力となった  長い間クイペアディスカスはWBの独占だったがそれはいつごろまでだっただろうか。

確か私がWBの経営を降りて山本くんに譲った10年くらいまではぼW独占していたと思う。 その期間は10年以上に及び、鵜の目鷹の目で売れるものを探す熱帯魚の世界では異例の長期間だった。 それが可能だったのは努力やオペプランだけでなくて様々な偶然があったのだが ここではアマゾンビジネスのくだくだしい話しはやめにしておこう。 アレンカーの赤を初めて試験出荷したのが96年のシーズン ”クイペア村”にアプローチして そこのディスカスを手に入れたのが、その1年後か2年後だ。アレンカー域で最初に手に入れたロケーションは 北岸の「パラカリ」と「クリクアラ」南岸の「イナヌ」と「イテルビナ」だった。 今ではパラカリもクリクアラも多分イテルビナも手にはいらない幻のディスカスとなっている。 これらの名前を書いていて懐かしい。

 

 アレンカー北のラーゴ・パラカリのディスカス。写真は97年8月となっている96年シーズンに 採集したものだ。それを飼い込んでいた。

 

今思うとまだディスカスファンの間では無名に近かった「アレンカー域のディスカス」に現在では当たり前の 産地名やロケーションを細かくわけて名前をつけてだしたことは当時としては斬新なアイデアだったと思う。 アレンカーのディスカスをテフェとかマナカプルとかのように大きなロケーションで一括りにしないで、 採集地毎、コミュ二ティー毎に名前をつけて出荷した。それをストックリストに掲載しその真価を世に問うた。 それからわずか2-3年の間にまず欧州を席巻しそれから日本にアレンカーブームは飛び火した。

 

WBSABBYとアレンカーディスカス、そしてオトゥリックの登場。

 

このWBSABBYのアレンカーのヒストリーの初期はドイツが主役だった。当時は知られていない ワイルドアレンカーディスカスについてリードしてくれたのはドイツだった。 WBを励まし買い続けてくれたのは祖国「日本」ではなく残念ながら「ドイツ」だったのは間違いない。 ドイツとのアレンカーのディスカスの取引がいつから始まりいつ終わったかも覚えている。 1996年シーズン(出荷は97年の初頭)にはじまり~2005年まで続いた。 それはドイツ北方の町のディスカスの元ブリーダーでインポーターだったオトゥリックとの 取引の時代のことである。

 

オトゥリックはドイツの当時のクライアントでディスカスは扱っていなかったミンボンアクアリウムのローランドに紹介された。初めて彼とあったのは中部ドイツ の町ケルン市でのことだ。 オトゥリックはすでにWSABBYのアレンカーディスカスを何十匹か ミンボンアクアリウム経由で入手していた。 私がケルンにミンボンのローランドとの打ち合わせに行った時に鉄鋼と炭鉱の町オーバーハウゼン から会いに来てくれたのだった。当時は多い時には年に3回ブラジルからドイツに行っていたの でその時がどの季節だったかは思い出せない。ただ曇っていて肌寒くいかにも欧州北部の天気だったのを覚えている。

 

 

 

アレンカー北岸 ラーゴ・クリクアラのディスカス これも97年の撮影 WBSBABYの撮影用タ ンクで。

 

ミンボンアクアリウムのあるケルンでの仕事を終えるとオトゥリックに促されて彼のクルマでオーバーハウゼンに行くことになった。オーバーハウゼンの郊外には炭鉱のあとや鉄 鋼業の現役や廃墟が散見された。 後年知ることになる南ドイツ アルプスを背景とした絵葉書のようなドイツとは異なりなんとも 言えずに陰鬱な雰囲気で「ドイツ観念哲学はこういう気候を背景として出てきたのか」などと想像した。

 

 

 

乾季のアマゾン 東京に生活の中心を戻して4年 アマゾンがどんどん 離れていく 懐かしい。

 

話はディスカスからそれるが、オーバーハウゼンは”ラインラント”に属する地域でヒトラーが突然 ラインラントの西岸を併合した歴史と重なり個人的にも興味深かった。 ルール工業地帯が歴史的にドイツを代表する重工業地帯であることは知識として知っていた。  ティーゲルやパンサー、メッサーシュミットなどの第三帝国のドイツを代表した兵器の多くの部品が この地域でつくれられたと思われる。なので英米連合軍により徹底的な爆撃をうけ、この町も 壊滅的に破壊されたはずである。 事実オトゥリックから何箇所がその痕跡を示してもらったりもした。 現在のドイツに特に興味はない。しかし歴史、神聖ローマ帝国~第三帝国までの歴史には その暗黒面も含めて興味が尽きない。

 

オトゥリックのディスカスの温室に入る

 

話をディスカスにもどそう。オトゥリックの温室は彼の自宅の地下室にあった。オーバハウゼンに着くとホテルにチェックインもせず彼の家の地下室に導かれた そこには縦長にみえる水槽がギッシリと並んでいてそこにWBの送り込んだアレンカー や他にもブリーダーから預かっているディスカスが”ギッシリ”並んでいた。それを一目みて このディスカスの専門家でもなんでもなかった駆け出しの熱帯魚 輸出業者に過ぎない私が「えっ!!!!!!!!」と息を呑んだ。それは素晴らしい色をしていた。

 

それは間違いなくWBの送り込んだアレンカー、おそらくパラ カリ、クリクアラ、イナヌであったはずである。 ”これは凄い なんと赤いのかー” めったに物事に感動はしない私ですら、いやこの時も感動こそしないが ”うーーーーーん” と唸ったと思う。 それほど美しかった。何に比較してということではなく絶対的に美しく見えた。 それらのディスカスは縦長の水槽に均等にこちらを向いて泳いでいるように見えた。 その中に数匹傾いているのがいて、それは右舷20度というくらい傾いているのだが ”老いているから” という説明だった。 もちろん実際にはディスカスは泳いでいるのだが記憶の中ではガラス面に垂直に数十隻の潜水艦が こちらを向いているようなそんなイメージとして定着している。 それはティアドロップ型の潜水艦を正面から見る如くボティーの真ん中が膨らんでいて WBの温室でより遥かにグラマーだった。 そして赤いのだ。それも自然な感じでやんわりと赤いのではなく強烈に赤かった。その後ドイツやルクセンブルグでいろいろなブリーダーのディスカスを見たが それは例えばルクセンブルグのハーマンさんのディスカスは素晴らしかったがこの時ほどの印象はない。もしかしたらその道のプロがみたら「もっと凄いのがいる」とか 「もっと赤い」とかいろいろあるだろうが、そういうことではなくて”はじめて一流の改良品種を見た”からで それが全てだったからだろう。

 

一般にはアマゾンの熱帯魚の多くはどれだけプロが飼い込んでもアマゾンですくいあげた直後の 美しさを超えることは難しい。アマゾンの多くの場所、本流、支流、支流の支流、ラーゴで採集されたばかりの様々な熱帯魚を見たが、例えばコリドラスで安物と当時言われていたエメコリなどでも信じられないほど輝いていて驚いた記憶がある。クレ二キクラもそうである。オレンジフロッセンもそうだったし。 水草はアマゾンのそれと美しさと比べるとしたら可哀想なくらいだ。

 

ところがオトゥリックの水槽のディスカス群は ”後光がさしているのではないか” と言ってもお かしくないくらいブリリアントだった。アレンカーですくいあげた直後の色など比べ物にならない。ましてアマゾンの水中での色など問題外だ。 第一アレンカーの形質の良いディスカスは採集直後は黒いのだ。ではWBの温室では? いくら飼い込んでも多少赤くなるくらいで、それより前に太らない。1000枚を超えるディスカスの 1枚1枚に手間はかけられないし、そんなレベルをエキスポーターは求められてもいなかった。 WBの仕事は調子を整えることで仕上げることではない。入荷したワイルドを普通の状態で維持できたら十分なのだ。

 

 

 

 

Wbsabbyの現在の温室 2005年に建てた。それまでは町中のボロい温室を借りていた ここはセラードとよばれるブラジル中央高原が美しく一望できる郊外にある。

 

ただそのときにハッキリ理解したのは「ワイルドディスカス、この熱帯魚はアマゾンよりも水槽で 仕上げたほうが遥かに美しくなる」ということだ。ディスカスが「熱帯魚の王様」と呼ばれるのは水槽の中でこそ最高に美しくなるというアマゾン熱帯魚唯一といってもいい特長もあるからではないのか。「仕上がったワイルドは改良品種を超えるのではないか」と今でも思えるくらいだ。だから逆に考えると、水槽で飼われないワイルドディスカスつまりアマゾンで一生を過ごす ワイルドディスカスはその美しさのポテンシャルを発揮できないまま一生を終えるのだろう。

 

オトゥリックの水槽を初めて見たあと ドイツでスエーデンでルクセンブルグで日本で韓国で台湾でどれだけ美しいディスカスをみただろうか。しかしその時は私自身が良いディスカスに既にスレてしまっている。仮に当時のオトゥリッ クの水槽のディスカスよりさらに磨き上がられたアレンカーのワイルドを見たとしてもそれほど 印象に残らなかったに違いない。 それは”初恋の美少女”が時を経るにつれイメージの中で美化されるとのと同じことなのだ。現実に品質で言えばきっとその時のオトゥリックの温室のディスカスを超えるディスカスを多数みているのだろう。 しかしあの時のワイルドディスカス群ほど強い印象を残したディスカスの温室は今に至るまでみたことがない。

 

その時からドイツのオーバハウゼンにオトゥリックを尋ねるたびにアレンカーディスカスについて 話し合い、彼はディスカスの専門家として私は”アマゾンの熱帯魚の仕事の専門家”としてアレンカー ディスカスのプロモーションについて意見交換をするようになっていった。 当時オトゥリックが繰り返し私に言ったのは主に以下の点である。

 

◯WBはアレンカーディスカスを採集し続けて欲しい。

◯いま欧州向けでワイルドディスカスの専門性を持ったブラジルの輸出業者というのはWBだけだ。

◯産地は細かいロケーションを特定して出荷をつづけてほしい。

◯産地が秘密ならファンタジーネームでも良い。しかし同じロケーションであることは守って欲しい。

◯かならず欧州に広める。

◯ブリーダーを中心に紹介していく。

そして

◯出来る限り買い支える。

ということだった

 

オトゥリックのこのようなアプローチにどれだけ当時のWBは支えられただろうか。 取引きが途絶えてから連絡もお互いにせず今は疎遠である。何をしているのか風聞で聞くだけだ。 ディスカスのプロモーションを協力してすすめていく中で何度か諍いもあった。 しかしWBがワイルドディスカスを扱うにあたって決定的に影響を及ぼし その初期に於いて支えてくれたのはドイツ、つまりオトゥリックだった。 その事には今でも感謝をしている。それから何年間かは欧州に広めていくために二人でよく協力したと思う。 今ではブラジル時代の個人的な、忘れ得ぬ思い出ともなった。

 

そしてわが祖国

 

一方同じ頃日本では、アレンカーのディスカスは散々の評判で、取引先の問屋さんが 頑張って売りを試みてくれたのだが売れ行きはサッパリだった。 ”色が黒い” ”アレンカーといってもただのブラウンディスカスではないか” ”グリーンのように色が明るくない” などと言われて問屋に買いに来た業者にはアピールはできず まったく売れなかった。 選りすぐりを送り込み、ドイツでの評判やオトゥリックから聞いた様々なアレンカーの”赤”の可能性をFAXで細かく連絡し さらにWBで個体の写真を焼いて300枚近く送り込んだこともあるが、そんな気合をいれたシップメントの時も 問屋さんがわざわざ声をかけてくれていて、WBのディスカスの到着時に数社の ショップや二次問屋さんがきていたこともある。その結果「4枚しか売れなかった・・・。」と連 絡があったときにはガックリきた。 前のめっていたから余計白けてしまった。

 

 

 

20余年を暮らしたブラジル ゴイヤス州の州都ゴイアニア市の夜 田舎町だが130万の人 口をもっている大都市だ ブラジルでは牧畜と美女で有名なところ。

 

ドイツと日本では同じアレンカーのワイルドで反応がどうしてこんなに違うのだろうか。 この時ばかりはその事実を前にして考え込んでしまった。 なぜドイツで評価され丁重に扱われブリーダーの注目を集め始めているディスカスが日本での評判は散々なのか。 私はいわゆるドイツ贔屓でもドイツ製品贔屓でもなんでもない。欧州贔屓でもなく仕事でなければいかない。 ポルシェよりGTR かZ、モンブランよりパイロット、ライカよりキャノン、BMWよりKWASAKI ドイツオペラより演歌を、ニーチェより西田幾多郎を、ギュンター・グラスより安部公房を好む。 「欧米文化大好き 欧米って進んでいる」とか「「欧米って多様性がすっごく進んでいてー日 本では~」とか素朴に信じ込んでいるタイプの人間には近づきたくないくらいだ。 欧州が別に、とくに凄いと思うことも特に感じない。 つまり海外生活が長い日本人に多く見られる”愛国者”で”祖国日本びいき”なのである。

 

しかしこの時は 日本はドイツに比べてディスカスの見る目に関しては遅れをとっているのではな いか。と思わざるを得なかったし真剣に疑った。それは多分、いや確実に当時の日本に「ワイルドアレンカーのポテンシャルを見抜ける人が 業者にあまりいなかったから」なのだろう。当時はそう思っていた。それから20年もたった今では ”問屋やショップにとってディスカスはまずビジネスであり家族や従業員を支える大事な 商品だ。だから未知のものに簡単手を出すリスクを取れなかったのだろう”と思えるようになったが。やがて日本でもインポーターやショップなどの業者にオトゥリックや欧州のブリーダーを通じて ワイルドアレンカーの評判が少しづつはいり始める。やがて日本での評価も上がっていた。 ただそれはドイツに遅れること3年くらいあとだった。

 

クイペアのディスカスを入手しドイツに送る。

 

さて、ドイツに勇気づけられアレンカーで新産地のディスカスをガサガサ探しているうちに クイペアと遭遇した。噂は聞いていた。 これにもいろいろストーリーがある。それは別の機会に書きたい。 北岸のディスカスははパラカリ、クリクアラ、ジャラキを経てついにクイペアに達した。 そのクイペアディスカスを早速オトゥリックに送り込んだ。 それは現在WBがクイペア1と名付けているロケーションでの採集でクイペア2 やクイペアーマンガウを入手したのはだいぶ先のことである。 その最初のシップメントがオーバーハウゼンについた翌日めずらしく長いFAXがオトゥリックから届いた。そこにはこう書かれていた。

 

”これがオレが待ち望んでいたディスカスだ。この赤、コレ、今朝は明け方までずっとこのディスカスを見ていた”

 

何千本とWB時代に私がクライアントとやり取りした FAXやメールのなかで忘れられない1本である。この時からWBのクイペア時代が始まった。 なぜクイペアなのか?このディスカスのどこが凄いのか?など、オトゥリックからオーバハウゼンで リオデジャネイロで、アマゾンの熱帯雨林の中で、彼の家のソファに寝転びながら何度も聞いた。そしてアレンカーをクイペアを広めるスキームについて打ち合わせをする。彼の見るクイペアディスカスの”核心的特長”は体型でも大きさでもストライプでも体力でもなく ”赤”に集約されていた。赤、赤、赤だった。 改良品種にとって”赤”がどのくらい大切なのかクイペアの赤がどのような意味を持つのか 当時ワイルドディスカスの素人である私も少しづつ自分なりのイメージを持つようになる。すべてのビジネスで大事な”ワイルドディスカスについての歴史観”も芽生え始めていた。 WBのアレンカーディスカスの欧州へ広がる様子をみながら、WBとしてどのようにアレンカーの いろいろなディスカスの展開をしていくのかより深く考えるようになっていった。 その中心はクイペアとまず決めた。

 

次回につづく 次回で最終回にします。

 

元WBSABBY代表 小野田啓右